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『マリー・キュリーの挑戦 ~科学・ジェンダー・戦争~ 』

8月17日(水) sun cloud

pencil 偉人伝として読んだ 「 キュリー夫人 」 像は 青年劇場の舞台で ガラリと変わったが、この本を読んで、また修正された。 故国への愛情、戦争、弟子との不倫、研究所全体に広がった放射能被曝、フランスで受けた外国人・女性差別・・・。 今まで知らなかった様々な情報が新鮮だったし、夫の父親、娘達とその夫、日本人の弟子など、彼女を取り巻く人々のエピソードも、大変面白かった shine

Photo 川島直子 著、トランスビュー (2010/4/2)

★ 読書メモ ★

ポーランド という国は、国として存在していなかった。 ロシア、オーストリア、プロイセン ( のちドイツ帝国 ) に分割支配され、マリアが生まれたワルシャワはロシア領だった。 公的言語は ロシア語、正規の宗教は ロシア正教。 ポーランド人には、選挙権も被選挙権も認められていなかった

*ポーランドでは当時、女性は大学に入学できなかった

マリア は、姉 ブローニャの学費を稼ぐために住み込みの家庭教師をしていた時、雇い主の子ども達だけでなく、近隣の農家の子ども達にも勉強を教えた。 未来の 「 ポーランド市民 」 育成をしたのだ

*ブローニャは医者になり、同胞で医者と結婚。 彼は親の世代からの革命家で、パリに亡命

*夫の寡婦年金を拒否してまで、マリーは自立した女性科学者としての人生を全うした。マリーが生涯、男性に対して一歩も引かなかったのは、自分が 女である以前に ポーランド人 だったから。 自分が発見した元素のひとつに 「 ポロニウム 」 と名付けたのも、祖国を思ってのこと。 彼女の棺には、兄と姉が持ってきた ポーランドの土 が入れられた confident

*ソルボンヌ大学は、女子の入学を認めたばかり。 実は、フランス人よりもポーランド人の女子学生の数が多かった wobbly

*夫ピエールとその両親は、マリーをピエールの妻としてばかりでなく、優秀な科学者として扱った。 そのことが、マリーに政治的活動を断念させて フランスに留まるという決意をさせた

*ノーベル賞受賞後、ピエールは ソルボンヌ大学理学部教授となり、フランス科学アカデミー の会員にもなったが、マリーは夫の実験室主任という職を得たに過ぎない。 女性にとっては、これでも破格の待遇だった

*夫の死後、マリーは後任として、国内で 女性初のソルボンヌ大学教員 となる。 理由は、「 放射能 」 の講座を担当できる人間が他にいなかったから。 これは、ピエールの最後の贈り物だった

*夫の死後、その愛弟子と恋愛するが、彼の妻により それを暴露され、職を失う危機を迎える。 「 外国人 」 「 」 という理由で世間の非難を一身に受ける ( 非難中傷があまりにもひどいため、イギリスで友人宅に隠れていたほど ) 中、2度目のノーベル賞を受賞。 一方、相手はお咎めなし annoy

*妻が夫の 「 所有物 」 であった時代、責められるのは女性だけだった。 アメリカで最初の伝記を出した次女 エーヴ は、( 相当嫌な思い出でもあるし ) アメリカでの 母親像を壊さないようにと、このことに全く触れていない。 が、当時のフランスにおける性差別やマリーの人生を語る上で 欠かせない事件だと、著者は語る

*運命の不思議と言うべきか、マリーの孫と不倫相手の孫が、その後、結婚している

*当時、「 ノーベル賞 」 は、その賞金額の大きさで目立っていた、無名の賞だった。 夫婦の受賞は、 「 癌の治療に効く放射能の発見 」「 エリートではない研究者 」「 ボロ小屋の実験室 」「 夫婦での受賞 」 ということで評判になり、ノーベル賞自体を有名にした

*フランスの 科学アカデミー は、「 女 」 を理由に、マリーの入会を拒否した。 同じくノーベル賞を受賞した マリーの長女 イレーヌ も拒否された ( 1979年に 初めて女性を受け入れた ) annoy

*ウィーンに生まれたユダヤ人の女性科学者 リーゼ・ライトナーにもノーベル賞受賞のチャンスがあったが、ナチスに追われて亡命。 彼女が主体的に進めてきた研究だったのに、共同研究者に受賞を乗っ取られる形となったのは、悲劇的

*マリーとイレーヌ母娘は、研究所での放射能被害について 問題にしなかった。 が、後世、客観的に判断すると、それは かなり杜撰だったと言える

*研究所で イレーヌと共同研究をした日本人科学者、山田延男 ( 1896-1927 ) は、( 後世の判断では ) 被曝の犠牲者。 会津出身の実業家に見込まれて学業を援助してもらい、娘婿となる。 東京帝大教授に任命されるという栄誉を得たが、31歳で早逝。 その妻 浪江は、残された息子の教育のために再婚した。 彼女にとっては、亡父の家を継ぐ一人息子が人生の目的だった。 こうした時、マリーの強さが際立つ。 夫や息子の価値にすがることなど、全く考えない人だったのだ

*マリーの弟子で 娘イレーヌの夫 フレデリック・ジョリオ=キューリー は、ジェラール・フィリップ似の美男子だった。 その弟子 湯浅年子 ( 1909-1980 ) は、優しいフェミニストである師を慕い続け、独身を通した。 日本よりも研究環境が優れているフランスで、正規の研究員としての職を得て、日本留学生の世話にも尽力した

*イレーヌ夫婦は放射線被害で 50代で相次いで亡くなったが、マリーとピエールと違い、左翼の科学者として政治的な発言もした。 女性差別をはじめとする人権侵害には、異議申し立てをした

*次女 エーヴの伝記とマスコミによって作れらた 「 仲の良い同業者夫婦 」 像は、実は例外的なもの。 同業者はポスト争いになるだろうし、同じ専門分野での力量と夫婦関係は、微妙に影響し合うもの

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